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晴耕雨読?それとも晴耕雨打?

仕事・家庭菜園・囲碁・アンネのバラ・そして旅行。結構忙しい。

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生姜の収穫

生姜の収穫1生姜の収穫2生姜の収穫3
今日からジャガイモの畝作り、と思ったが、まだ収穫していない生姜を掘り起こすことにした。
え?今頃?と思われるかもしれないが、これには理由がある。毎年秋に収穫し、春まで工夫しながら保存しているのだが、植え付けの頃になると多くが腐ってしまう。そのため今年は秋に収穫せずそのまま畑に置いておいた。
多少腐りかけたところもあるが、おおかたは大丈夫だ。今年はこれを植え付けることにしている。御覧のようにたくさんあるので、種を残しておいても食べる分は確保できる。ひと冬土の中に置いた生姜の味はどうだろう。
ボケの花1ボケの花2
去年の正月に衝動買いをしたボケが今年も花を咲かせた。鉢が浅いので水不足になりがちだが、今のところなんとか生き延びている。
芍薬1芍薬2
これは芍薬。5年前に地植えしてあった芍薬を掘り起こし鉢植えにした。昨年直径30cm以上の鉢に植え替えた。数日前から芽を出してきた。

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被災地訪問 in 大槌町 まとめ

震災前の大槌町2015年3月の大槌町2016年3月の大槌町
上の3枚の写真は「震災前の大槌町」「2015年3月の大槌町」「2016年3月の大槌町」である。写真家の伊藤陽子さんは、「震災の日の朝用事で宮古へ行きそこで被災。何とか帰って来たときは町が消えていた」と表現されていた。確かに家も道も何もかもなくなっている。私は2015年3月に初めてここに来たので、震災の日の荒れ果てた様子はわからないが、写真集を見ると、町全体が瓦礫置き場に変わっていた。そして5年、瓦礫は片付いているが、2枚目の2015年と3枚目の2016年の1年後の町様子を比べても、ぱっと見るだけでは復興してきたということがほとんど感じられない。

丹後にいるとメディアでしか情報は入らない。今その情報はほとんど流れてこない。「もうある程度復興できたのではないのか」と誤解してしまう状況である。
昨年私は、大槌町の被災の様子を少しでも理解するために伊藤さんの写真集を買った。同じ写真集を今年も買った。今年購入した写真集は、1人でも多くの人に町の様子を理解してもらうために峰山図書館に寄贈した。一緒に行った仲間は網野図書館に持っていくと言っていた。もし時間があれば一読してほしいと思う。

はっきり言う。多くの人たちが日夜努力はしているが、いつ復興するのか見通しが立たない状況であるように思える。

震災から5年がたちその年小学校に入学した子どもたちは今年6年生になる。この子たちの小学校の思い出は大人になった頃は取り壊されているプレハブ校舎である。
仮設住宅では引っ越しできる人とそこにいるしかない人とに分かれ、取り残された高齢者が寂しい思いをして暮らしているという新たな課題もある。
私たちが仮設住宅を訪問したとき、そこに住んでいる人たちは待ちかねたように私たちを出迎えてくれた。そして、最近は「ボランティアで来てくれる人も少なくなり毎日が寂しい」と吐露された高齢者もいた。

さらに、「ボランティアが減る」ことで「カリタス大槌ベース(宿舎)の閉鎖」が決まってしまった。ここが閉鎖されると、私たちの宿舎にかかる経費が高くなり経済的に行くことが難しくなる。するとさらに「ボランティアが減る」という負の連鎖が始まるかもしれない。

それでも私は行きたい。今年参加した菜の花プロジェクトを応援するためにも、町の復興の手伝いをするためにも。

去年は仮設住宅以外で子どもの姿を見ることはできなかった。今年は町の一角にグランドができていてそこで野球の練習をしている中学生の姿が見られたのみである。一日も早く、河川敷にいっぱい咲いた菜の花が、そして元気に遊ぶ子どもたちの姿が見られる町が蘇りますように。

被災地訪問 in 大槌町4

朝5時起床。荷造りを済ませてから手分けして宿舎(カリタス大槌ベース)の清掃。
6時、丹後に向け大槌町を出発。
菜の花プロジェクトが気になりこのまま次の仕事が始まるまで留まりたいが丹後にもしなければならないことがある。きっとまた行こうと誓い、帰路に着いた。

大槌町は町の再建を目指して急ピッチで工事が進んでいるが、町はまだ消えたまま。釜石も津波の被害があった地域は大槌町同様再建工事の真っ最中である。

25日、26日のたった2日間だったが少しは役に立ったと自分に言い聞かせている。
細かい反省は、後日のブログに残すとして、今日はここまでとする。
丹後コーラスグループ「しわくちゃーず」の皆さん、鳥取や大阪から参加してくれた若者たち、カリタスで一緒になった広島の学生さんたち、ご苦労さんでした。そしてありがとうございました。
おやすみなさい。

被災地訪問 in 大槌町3

朝5時起床。6時に2升の炊飯が予定されているので大きい炊飯器の準備をしなければならない。5時半頃から倉庫の炊飯器とガスボンベを持ち出し点火テスト。
成功!あとは指示待ち。
6時半頃よりで朝食とバラ寿司作り。他府県から参加した若者も初めてのバラ寿司作りに挑戦していた。

朝食後、3つの訪問と1つの菜の花プロジェクト参加に別れて出陣。私は今日も菜の花プロジェクトに参加した。
10時から作業を始め、しばらくすると大阪にコープグループ20名が合流した。昨日は5名での作業だったので、しかも雪のためわずか1時間ほどだったが、今日は大勢での作業となったのでかなりはかどった。

昼食後はプロジェクトを立ち上げたKさんの紙芝居。テーマはプロジェクトを立ち上げるまでの経過。
Kさんによると、震災後両親も家族もなくしたことを知らされた高校生のその時の顔、そして後日、咲いた菜の花を見て癒された顔、その顔が忘れられず、春一番に咲く黄色い(希望を感じさせてくれる)花である菜の花を一面咲かせたいと思った。その事が亡くなった20名以上の同級生や多くの人たちへの供養になるように思うと、込み上げてくる感情を必死で押さえながら、話をしておられた。

紙芝居のあと15時まで作業をした。掘り起こした土の中から、鉄骨、定規、カチューシャ、積み木、ネガフィルムが出てきた。
これを使っていた子どもたちは助かったのだろうか。

夜は今回の最後の取り組み、写真家伊藤陽子さんの震災探検談。心に残る話はたくさんあるが、道路の電柱の話がある。
伊藤さんの写真集の中に、折れた電柱がある。15mくらいある電柱が上から1、2mのところで折れているのだ。大槌ではおよそ13mの津波に襲われている。上から2m位のところで折れているということは、10m以上の津波が何かを押し流してきてそれがぶつかって折れたのだろうと
、説明があった。少なくとも電柱を覆うほどの津波が襲ってきたことだけは間違いはない。津波の映像も見たが恐ろしい話である。


今回の大槌入りで感じたことは、1年前よりも復興が確かに進んでいる。しかしまだまだほとんどの人たちが仮の生活を余儀なくされている。
最近は3・11前後はテレビ放映もあるが、その時期を外れるともうほとんど見聞きすることはない。
まさまだ忘れてもよい時期は訪れていない。
来年菜の花畑を見に来たいものだ。

被災地訪問 in 大槌町2

朝7時に大沢温泉を出発、遠野、釜石を経て大槌町に入る。

大槌カリタスベースでのビデオ研修を終え、市内研修に出掛けた。
時間が限られているので、城山公園と旧町役場訪問。それぞれの場所で黙祷を捧げた。
城山公園から見た町内は1年前と比べても復興は確かに進んでいる。
去年見た鉄道の橋桁が見えないくらい盛り土が高くなり、道路もコースが決められたものになり、復興が進んでいる。一方で学校はいまだにプレハブ校舎、外部からはわからない優先順位があるのだろうが、子どもたちの良い環境をができてほしいものだ。


午後はコーラスグループしわくちゃーずを中心としたカラオケ大会参加組、河川敷に作る菜の花畑の瓦礫取り組に別れて作業。私は菜の花グループに参加。
行ってみると、幅15m×100m以上の河川敷にコスモスや菜の花を植える予定で、もうコスモス畑はできていた。
菜の花畑はまだ始まったばかり、今日は私たち菜の花組4人と地元のKさんの5人だけだったが、明日は私たちゆるボラだけでなく、大阪からも20人ほど参加者があるようだ。
「なぜ菜の花ですか」と尋ねたら、「一番先に咲く目立つ花だし黄色は希望を感じる色だから。そして菜種油をとって何かできれば最高」という返事だった。来年来たときは一面の菜の花が見たいものだと考えながら作業を進めた。
ツルハシで掘り起こし石や厄介な草の根をとっていたら、雪が降り始めた。すぐに止むと思っていたが、どんどん雲が厚くなり本降りになったので、残念だが作業を切り上げた。

カリタスに帰ると他のグループも帰ってきた。ここでは「分かち合い」と呼ばれる一日の思いを話し合う時間がある。
私は、菜の花畑作りで感じたことを述べた。来年もここに来て菜の花畑を見たいということを。
明日も畑作りに参加しよう。

被災地訪問 in 大槌町

早朝4時起床。5時半岩手県大槌町へ向けて京丹後市役所出発。

↑毎日新聞より
1年ぶりの訪問だ。仮設住宅訪問、町内視察を通じて、去年と比べてどう変わったのか、少しずつアップしたい。
出だしはトラブルの連続だ。
1:1人集合前に出発、すぐに気づきUターン。
2:その後車にカメラを忘れているのに気がつく。昨日充電を済ませ集合場所までは持っていったのに、最後の市役所で車においたままにしてしまった。諦めて、今年はスマホで撮影することにした。
と、ここまでは笑い話だが、
3:福井分岐点前で、マイクロが急に停まった。アクセルを踏んでも加速せず、自然停車してしまった。レンタカー会社に問い合わせたところ、時速80kmくらいで走れば大丈夫との返事。みんな「えっ、時速80kmで大槌町まで(約1000km)行くの?」と不安を払拭できないまま前進。
しかし、女形谷でとうとうダウン。もう無理だとレンタカー会社に伝え代車が届くまで4時間をつぶしてしまった。
今日中に大沢温泉に着けるだろうか。
大誤算の5時間だった。
待っている間、SAから徒歩で一般道に出ることができた。誰かが造り酒屋を見つけたのでそこへ行くことになった。
私は下戸だが向学のためついていった。
酒の銘柄で「一筆啓上」とか「鬼作佐」があった。城は丸岡城。「城主は?」と尋ねたら「本多作佐衛門」と返事、「一筆啓上」も「お仙泣かすな、馬肥やせ」の手紙を書いた人だった。歴史に触れた時間を過ごすことができた。
エンジントラブルのおかげかな。
(((^_^;)

代車が届き女形谷を出発したのが13時半過ぎ。花巻市の大沢温泉に着いたのが22時半過ぎ、出発してから17時間を経過していた。早速温泉に入って寝ることにした。

被災地訪問、天気図復元、そして切峰面図挑戦

昨日で今年度の遺跡調査の仕事が一段落した。今年は雪がなく例年になく山は歩きやすかった。
次年度の作業は5,6月頃からの予定。
明日24日~27日までは岩手県大槌町の仮設住宅訪問。昨年度始めて参加したが、町は消滅したまま、避難した多くの人はいまだに仮設住宅で暮らしている。微々たることしかできないが、ボランティアの仲間とできることで仮設住宅で暮らしている人たちのリラックスタイムを少しでも造りたいと思っている。
それが終わると、丹後震災当日の天気図の復元作業をしたいと思っている。

各地の天気データ震災当日の天気図天気図
これは入手した89年前の3月7日の各地の天気データと天気図である。今は使われていない気圧に「mm(水銀柱か)」が使われているのでhPsに置き換えて新しい天気図に記入していきたい。?10年ぶりの天気図なのでうまく書けるかどうか・・・・。(^^ゞ

それが終わると、切峰面図に挑戦。5月から仕事が始まると集中して取り組めないので、なんとか4月中には何枚か完成させたいのだが。

第5回文化財セミナー

京丹後の地形と教育切峰面図とは大きく方向転換する竹野川
第5回の文化財セミナーは3月11日にあった。今日は「京丹後市の地形」と「京丹後市の海岸」についてだった。
ジオパークのテーマの1つに「教育への活用」がある。九州の姶良火山の爆発による火山灰層、郷村断層からプレートテクトニクス、棚田をつくっている海岸段丘から地殻変動と海面低下など、身の回りには面白い現象を裏付ける地質変動の材料がたくさんある。
そして、講義の中で私の興味を引いたものが切峰面図だ。それは、現在の地形図を基にして以前の地形を復元しようとする図面のことである。
3枚目の写真を見てもわかるように丹後半島の中心部を流れている竹野川は五十河を出発してしばらくは南下して阿蘇海方面へ向っているが、それが大宮町三重で方向を北に変え丹後半島を縦断して丹後町立岩で日本海へ注いでいる。
南から北に方向を変える原因はもちろん地形が高くなっているからなのだが、数十万年前はどうだったのだろう。もしかして、阿蘇海へ注いでいたとは考えられないのだろうか、と以前から考えていたことである。
ここには山田断層という活断層がある。山田断層により北側がどんどん高くなったとは考えられないのだろうか。そして切峰面図により以前の地形が復元できるという。非常に興味深く聞くことができた。
切峰面図の作成切峰面図の作成2切峰面図の作成3
切峰面図の作成方法も併せて説明があった。どの程度の方眼で取ればよいのかが良く分からない。今度講師の先生に出会う機会があれば、この点を尋ねてみたい。等高線を引く作業は天気図を書く作業とほぼ同じなので、それほど難しい作業ではない印象を受けた。いつかは挑戦してみたいものだ。

第4回文化財セミナー

京丹後市の大地の歴史
3月8日と11日に網野ラポートで文化財セミナーがあった。テーマは8日が「京丹後市の大地の歴史」、11日が「京丹後市の地形」と「京丹後市の海岸」だった。
どちらも地質に関するセミナーだったので面白く受講することができた。そのうちの8日の内容は、以下のようなものだった。
地球の歴史46億年を1年に換算して京丹後の主な地質年代の説明だった。
地質カレンダー1大江山のかんらん岩かんらん岩のできた場所
最初は京丹後市で最も古い石について。これは大江山のカンラン岩。できた年代は今から4億5千万年前。
あれ?こんな時代に日本列島ができていたのか?と疑問に思った人はすごい。影も形もない時代だ。6億年くらい前ゴンドワナ大陸というのが南半球にあり、その一角でできた石ということだった。よくそんなことがわかるものだと驚いた。そしてこの年代を地質カレンダーで見ると、11月20日過ぎ。
地質カレンダー2白雲母の結晶京丹後市の希少鉱物「河辺石」
時代は下って今から6000万年前。このころの日本列島はまだユーラシア大陸の一部だが、京丹後市の半分を覆う花崗岩が大陸でできた時代だ。
このころできたと考えられる地質にペグマタイトがある。峰山町を西から東へ貫いている地質だ。
そこからは、水晶やさまざまな鉱物が産出する。子どもの頃水晶を取りに山へ行き、おまけに白雲母の結晶も採取したことがある。よく見ると全体が六角形になっているのが分かる。
また、私が地質に興味を持ち始めた高校生の頃、大宮町の山奥に鉱山(すでに閉山していたが)があり、そこからは写真の河辺石という放射性鉱物を始めとしていろいろな鉱物が産出したと聞き、知人と一緒に鉱物探しに出かけたことがある。残念ながら河辺石は採取できなかったが、褐簾石を見つけることができた。
地質カレンダーで12月10日ころのことだ。
地質カレンダー3植物化石魚の化石
2000万年ほど前から日本海が形成され始め、日本が大陸から離れてくる。このころの地層からは淡水湖の魚やメタセコイヤなどの植物の化石がとれる。魚の化石は40年ほど前私が伊根町足谷の小川で採取したものだが、魚の分類は分からない。
地質カレンダー12月30日。
京丹後の足跡化石立岩周辺のマグマの給源火道岩床と岩脈
同じころの久美浜町の地層から哺乳類の足跡化石があること、安山岩の柱状節理の方向の違いなど、このあとも面白い話が続いた。しかし、カレンダーはすでに12月30日、人類はまだ現れていない。人類の歴史は12月31日の紅白歌合戦が終わった頃。わずか15分ほどの間に、人類によって地球は大きく変貌を遂げている。

古文書講習会

板書仕切書>
久しぶりの古文書講習会に行ってきた。今年度最後だ。
今日は江戸時代から明治時代の宮津廻船問屋文書(もちろん本物)の判読。始めに一般的な書式を教わり、そのあと判読作業に取り掛かった。
受講生それぞれがたくさんの古文書の中から思い思いのものを選び取り組んだ。読めないところは先生に尋ねながら2時間余り必死に取り組んだ。
私の取り組んだ文書の内容は次のようなものだった。


一 大嶋黒砂糖五挺(梃?)
皆懸〆百廿八貫四百匁
内一貮拾壱貫五百匁内袋引
(中略)
正味金三拾四圓
三拾六銭九厘
右通御買入代金
不残相渡申候也
明治十七歳
申七月十八日
(など)

というものだった。
始めはほとんど読めなかったが、先生に教えてもらいにらめっこをしているうちに、少しずつ読めるようになり、講座終了時には判読が完了した。面白かった。
(^^)v
今年度は今日で終わりだが、また次年度も参加したいと思っている。欠席を減らしながら。
(^^ゞ

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